長谷川 敏 Satoshi HASEGAWAのBlog

声楽テノール。東京藝術大学卒、同大学院修了。ウイーン国立音楽大学卒。 東京芸術大学、お茶の水女子大学、洗足学園音楽大学講師、茨城大学教授を歴任。東京二期会会員。茨城大学名誉教授。LiberoCantoJapan主宰者。 Libero Canto歌唱法、すなわちウイーンのSzamosi教授の自由な息によるクオリテイーの高い歌唱法を長年に渡り、研究し実践してきている。 神奈川県藤沢市在住             

カテゴリ: 脱力メトード LiberoCan

No.7   Libero Canto の原理 
以下にサモシの Libero Canto の「原理」(Principle)について、長谷川のニューヨーク在住の友人であるDebolah Carmicaelが著した文章を翻訳紹介する。
 「呼吸なしに声はなく,呼吸なしに歌唱はない。私たちの呼吸方法が歌唱方法を生じさせるのである。呼吸方法自体が完全に私たちの身体的,感情的な状態の現れである。それゆえ単に技術的な呼吸練習などはこの点で目的を達し得ない。私たちの呼吸と歌唱とは私たちの精神生活を,またそれを隠しているものを明らかにする。私たちが内面を隠し,その表現力をゆがめてしまう最も明白な身体的方法とは,緊張のパターンと呼吸をせき止めること,力づくの強制パターンである。息の抑止と,強制は身体と呼吸の自然な機能を邪魔する同じ網の2つの側である。私たちは自由に歌うために干渉をやめなければならない。
 どんなに本当の表現らしくみえても,歌うことは操作できないし,強制できないし,直接制御もできない。できることそこに起こることだけである。音楽の,そして表現しようとする衝動の無制限な活動を許容することで,私たちは音楽と焦げ跡の中で,現実を明らかにする音楽制作の品質を得ることが出来る。故意に私たちの身体を操作しコントロールすることによって,ある種類の技術的能力を達成することは可能である。しかし,歌手が提供すべき音楽の贈り物はすべて,そのような支援でなく技術でなく届くものである。生理学の事実は器官,筋肉,および歌唱に含まれるプロセスが直接の意識的なコントロールにアクセス不可能である。直接または機械的な方法で筋肉を操ろうとするなら,私たちはせいぜいそれらのイミテーションに到達しうるだけである。他方では,私たちが歌唱の器官,筋肉およびプロセスが自然に機能するのを妨害しなければ,またそれらがするようにそれらが応えることを認めれば,それらはわたしたちが想像できるあらゆる音楽の,そして,表現の品質を作り出すために自分達の生得の能力を明らかにし始めることが出来るのだ。
 声はしばしば歌うことによって混乱する。そして歌手は声の音へののめりこみによって妨げられる。声は一方で身体の神経組織,筋肉組織に関わる表現であり,他方では力強く,表現力豊かな,美的な人間の行動がなしうる複雑なプロセスの最終的な結果として聞き取れる。
 声とは私たちが歌うという行為で息を吐いた結果動く空気の振動である。
 声自体は,器官や筋肉やプロセスや芸術形式などではない。
声のクオリテイーは発声前の 12 分の1秒で決定されるので,声を生み出す根底にある身体的感情的なプロセスにまで直接働きかけることは不可能である。 声楽の教師の仕事はこれら根底にあるプロセスを認めて,生徒が最も自由な可能性をもった手法でこれを展開するのを援助することである。このために,表面上の体裁よりもむしろその機能を聴くことを学ばねばならない。
 歌唱の技法がどんなに洗練されあるいは巨匠的であったとしても,それは最も基本的な人間の表現から決して遠いものではない。歌うことは笑うこと,泣くこと,そっと歌うこと,大声をあげること等など,私たちが鋭敏で原始的なエネルギーでもってなされる人間の表現のすべてにわたっている。それが抵抗または歪曲なしで私たちの中を通わせ流れさせて,音楽形式の秩序の範囲内で達成されるとき,歌唱はその完全性に達するのである。これこそが私たちのいう自由な歌唱である。
 

 No.6

 さてラヨシュ・サモシ先生の死後,筆者は 1980 年より子息のエドウインに師事しました。彼は父の後を継いで、このメトードを姉ヘッダとともに発展させて来ています。
 ある時私はエドウインのレッスンを受けてから,自宅でその時の録音を聴いて全く驚いた経験があります。人は自分では自分の本当の声を聴くことができません。そのことを割り引いたとしても,後から聴いたその録音は,これは全く自分の声ではないと思えるほど上品で,伸びやかで温かく優美な声だったのです。そのとき筆者はこれこそ自分が以前から捜し求めていたものであるという確信を持ちました。
 
そして私はこのメトードによる演奏と声楽教育を日本で長年にわたって続けてきました。
 このメトードは、力に任せて張り切って歌っていく方法でないため、花開くまでに忍耐が必要ですが、私自身が年齢を重ねてもまだ現役で歌うことが出来るし,生徒に対する範唱も十分に出来るのは有難いことです。声楽教育の面でも殆どの生徒がメトードに理解を示し,良い歌い手として育っているのは、この方法が間違っていないことを実感させられるのです。

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